老子の無としての道
2017年10月30日
「目をこらして見ようとしても見えないから、つかまえどころがないといおう。
耳を傾けてもその音を聞くことができないから、かぼそいといおう。
これを手で捕らえようとしても捕らえられないから、微小というほかはない。
この三つの表現だけでは、まだその正体をつきとめることができない。
だから三つの表現を混ぜあわせて一つにすれば、それに近いものとなろう。
そのものは上部ほうだかといって明るいわけではなく、
かぶのほうだからといって暗いわけでもない。
どこまでも延々と連なり、何ものもない世界に帰っていく。
しいて言いあわせれば、状(すがた)なき状であり、物ならぬ象(かたち)である。
いいかえれば恍惚であり、定かでないものである。
これを前から見ても、その頭を見ることはできないし、これを後ろから見ても、
その尾をみることはできない。
だが、この太古から伝えられた道をしっかりと握りしめ、今あるものを統御するならば、
万物の始めのありさまを知り、これを再現することもできるであろう。
これを道による支配とよぶ」
(第14章)
これは無である道の体験的な直観の叙述である。
それは論理の媒介を借りない直接の体験であるという意味で、神秘的であるといえよう。
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