姓名や肩書であることのできる自分とは、
社会的な形式としての「自我」である。
「自我」は「自己」は一形式にすぐないとは、
心理学的な事実であるが、論理的事実でもある。
「私は誰の某である」いう「私」、
その「私」とは何であるか、これが、
自我の向こうの自己への問いである。
人が、自分を自我と同一するとき、
空疎であるか、耐えられないと感じるのは、
自我というものがその本質上、
世界と自分を対立するか、
別のものと捉えるための形式だからである。
内実のない自我は、
内実を得ようと世界に関わるが、
しかしその関わるということが、
やはり世界を否定するこいう仕方でしか
あり得ないからである。
自我と世界を対立するものと捉えるのは、
近代特有の世界観である。
この世界観によって、
自然科学は進歩を遂げたが、
もともと目に見えない
捉えがたいものである自己、
こちらの側を探求する作業は怠られた
ようである。
自分を自我とし、
自我をこの肉体とすることで、
人は納得しようとしてきたけれども、
納得しきれないことによる
さまざまな綻びが、
あちこちに生じてきたようである。
参考図書
~池田晶子~
『あたりまえなことばかり』
ひとり、ひとりの自我が拡大した状態が
現在の世界である。
釈迦も、キリストも、モハメッドの
一番重要な”気づき”もおそらくここにある。
われわれが普段自分だと思っている自分は
自我である。
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