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池田晶子
2015年12月04日

若くして亡くなった哲学者、
池田晶子が自己=魂について
センスの良い触れ方をしているので、
引用したい。

「自分とは「何であるか」、
他人や社会によって知ることができないと
知ったとき、人は、
自我の向こうに自己を索(もと)めて、
遥けく船出することになる。

じっさい、対社会的形式もしくは
機能としての自我など、
それ以上のものでもない。
「私は誰の某です」
そう言って挨拶する、
そのようなものである。

しかし、自分とはその姓名以上の
何者かである、そう感じる時、
人はそれと知らず、
魂としての自己、
その内実に触れているのだ。

このとき、これを観察し、
探索するという「孤独な」作業、
これを厭って、
安直に他者を求めて
出向かないことだろう。

魂としての自己、不可解であると
いう意味において豊かなその内実は、
それを知ろうという態度にしか
開かれないものだからだ。

その探索を「船出」と言いたくなるほど、
なるほど魂としての自己は海に似ている。
広い、深い、底が知れない。

自我による「自分探し」の空疎さを、
玉ねぎの皮むきにたとえる
言い方があるが、
それとは対象的に、
出会うものすべてが自己であると
言いたくなる、
また、じじつ言えてしまうことの
面白さがそこにはある。

孤独ということは、
隠棲して自己を見るということは、
本来、極めて上等な楽しみ、
一種の甘美な悦びであるはずなのだ」

ソクラテスのいう「汝自身を知れ」の意味が、
この説明によって理解できる。

われわれが自分だと信じているものは、
実は自分ではない。

心理学の教祖的な面々も、
歴史的な宗教家の多くも
池田晶子ほどには解釈できていないように
思える。


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