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リベラルの誕生から
2016年01月15日

現代のリベラリズム
(西洋の啓蒙主義の全体的運動)は、
まさに、そのほとんどが
伝統的な宗教の対抗的な力として
現れてきた。

集団の専制に対する
個人の権利と自由を謳いあげる。
そのため、いかなる宗教的な運動にも
深い疑いの目を向ける。

まさに宗教は、常に個人にその信条を
押しつけ、魂を救うため、
何をなすべきか説教するからである。

啓蒙的なリベラリズムは、歴史的に
このような宗教的専制への戦いから
生まれてきた。

そのために、宗教的なもの、
スピリチュアルなもの、少しでも
聖なるものに対して深い不信、
場合によってはほとんど憎悪に
至る感情を抱いている。

リベラルは、神による救済に替えて、
経済による救済をもってしようとする。
真実の開放と自由は、
あるかないかわからない死後の生、
その他、もろもろの大衆に与えられた
阿片にあるのではなく、
物質的・経済的必要性から始まる、
現実の生における現実的な獲得に
あるとされる。

「進歩的」という言葉と「リベラル」という
言葉は、しばしば同じ意味を持って
使われる。

社会条件の進歩、経済的、物質的、
政治的な自由の拡大が、
まさにリベラリズムの核心を形成する
からである。

共同体の専制に対して、
リベラリズムは普遍的な個人主義と
言ってよいものに替えようとしてきた。
それは、すべての個人が人種や性、
肌の色、信条に関わりなく、公正と平等な
正義をもって扱われるべきであると
要求する。

個人は共同体の専制から解き放たれて、
経済的、政治的な自由を要求する。
これがリベラリズムの福音ラッパである。

こうしたリベラリズムから、確かに多くの
善が生み出されてきたことは間違いない。
にもかかわらず、
実にしばしば経済的な専制が宗教的な
専制にとってかわり、
法王の神のかわりに
ドルの神がその位置についたのである。

あなたの魂はもはや神によって砕かれる
ことはないが、
工場で砕かれるかもしれない。
こうして人生の究極的な関心は、
聖なるものとの関わりではなく、
もっぱら収入との関わりへと変わった。

参考図書
ケン・ウィルバー
『統合心理学への道』


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