分け入っても分け入っても青い山
~山頭火~
瞑想は思考のパターンに自我を
包ませることでも、
快美な体験に身を任せることでもない。
瞑想ははじめを持たず、
それゆえ終わりがない。
「今日から思考を制御し、
静かに瞑想の姿勢をとり、
調息をはじめよう」
というとき、あなたは自己欺瞞の
陥穽(かんせい)にはまったのである。
何か途方もない思念やイメージに
没入することによって、
ちょうど子どもがしばらく
玩具に夢中になるように、
しばらく自我を静めることはできるだろう。
しかし、それは瞑想ではない。
子どもはその玩具にあきると
また前のように騒々しく、
いたずらになる。
瞑想は何か空想的な至福を
実現することでもない。
瞑想のさなかにある精神の沈黙は
境界を持たず、したがってそれは
認識の領域にはない。
あるのは沈黙だけであって、
その中では分離の空間は終焉する。
参考図書
~ジッドゥ・クリシュナムルティ~
『クリシュナムルティの瞑想録』
わたしは実家が臨済宗妙心寺派の寺
の檀家のせいか、
不思議と臨済宗の僧侶の方とご縁が
多かった。
あるときふとしたことから道元に触れる
機会に恵まれた。
道元といえば”只管打座”「ただ、座る」で
ある。
目的を持って座る必要なしという。
瞑想にしても、禅にしても、
クリシュナムルティにしても、道元にしても
全く同じことを言っている。
世の中で一般的に持たれている期待や、
イメージとはほど遠い。
根本が違うと、どのようにしても辿りつけない。
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