「純粋経験」とは日本を代表する哲学者である
西田幾多郎が表した「無」の哲学である。
今日はなぜかこの話題になる不思議な日だ。
「純粋経験」とは、芸術家やスポーツ選手、音楽家、
将棋、碁、チェスのプレイヤーが作品の制作中や
演技、競技に高い次元で集中している経験のことだ。
何かを純粋に見ている私、何かを純粋に聴く私がいて、
見ている私や聞いている私が全く存在しない状態、
知覚のみがある状態のことである。
付け加えると、反省や分析の対象になる以前の没我、
忘我での経験のことをいう。
チクセントミハイの提唱した「フロー」も、ほぼ同じ概念だ。
当たり前に感じるかもしれないが、
根本のメンタル構造が二元論である西洋人には、
相当感じ難い感覚であるようであるし、
おそらく、現代の一般的な大人の日本人でも
経験することが難しくなっているはずである。
それは、行為する「わたし」を常に評価、批評する
「わたし」がいつも存在するからである。
西田幾多郎がいう「純粋経験」は、
以前であれば多くの日本人が普通に経験していた
ということに、私個人は驚きを禁じ得ない。
なぜなら、現代の芸術家やミュージシャン、作家は
「あれがきた」とか「降りてきた」とか、
一般的にはかなり怪しい表現を用いるし、
スポーツ選手は「ゾーンにはいった」などという。
西田幾多郎のいう「無」の状態の経験のことについてだ。
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