知識は一つのものを善と悪に分けるが、
自らを善、他者を悪とするところから、対立を呼び越すことになる。
「学を絶てば憂いなし」
「聖を絶ち知を棄つれば、民の利は百倍す」
知識がもたらす災害は、それだけではないという。
知識の増加は、たえず新しい欲望の開発をもたらす結果を招く。
もともと人間が欲求不満をもつのは、物が足りないことよりも、
たえず新しい欲望に駆りたてられることによる。
知識による欲望の肥大は、どのような結果を招くのか。
「五色は人の目を盲にし、
五音は人の耳を聞こえなくし、
五味は人の口を麻痺させ、
馬を乗りまわして狩りをする遊びは人の心を狂わせ、
珍貴で得がたい貨(たから)は人の行ないを邪悪にする」
というように、人間の自然で正常な心身のありかたを失わせる。
したがって老子は「無知」とともに、「無欲」ないし「寡欲(かよく)」を強調する。
しかし、老子のいう無欲は、ストア学派やキリスト教・仏教などが説く
「禁欲」と同じものではない。
もともと禁欲というのは、身体と精神の対立という二元観から生まれてきている。
精神ないし理性を人間の本質であるとみ、肉体を次元の低いもの、
ないし、罪悪にみちびくものとみるところに、禁欲の思想が生まれるのである。
老子には二元観というものがない。
人間を心と身とに二分するというのは相対差別的をする知識によるもので、
老子が排斥してやまない人為にほかならない。
それを無理に二分して、一方的に身体の欲望を抑えつけよとするのは、
不自然中の不自然である。
無欲は、現在自分が持っているものに満足するところから生まれるもので、
つまり、「足るを知る者は富む」という結果である。
欲望をなくすというのではなくて、欲しいものがないのである。
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